権田愛三は江戸後期の嘉永3年、現在の熊谷市東別府に生まれました。当時の麦作りは、生産が安定していなかったため、人々は食料不足で困っていました。そのような状況を憂いた愛三は、麦の増産を決意し麦作りの改良に取り組み始めました。様々な研究を重ねながら、愛三は良質な麦の生産にむけて根張りを良くするために早春に麦の芽を踏む技術の「麦踏み」を取り入れ、大きな効果を発揮しました。また、増産にむけては、熊谷の雪の少ない気候を利用して米の収穫が終わった冬の間に麦の生産をする「二毛作」を行いました。こうした技術改良の結果、明治29年には当時の収穫量の4倍〜5倍をあげることに成功し、その成果を地域の農家に伝授しました。そして、更なる研究の場として埼玉県立農事試験場が、現在の熊谷市玉井地区にできたのも愛三の嘆願によるものです。また、明治41年には、これまで研究してきた麦作生産技術を当時の農商務省に上申しました。これらにより愛三の技術改良は全国に知れ渡り、各地から講演や技術指導の依頼がくるようになりました。全国各地に出向き、年間で350回以上、受講者1万8千人余にのぼりました。また、埼玉県内はもとより、鹿児島、熊本、茨城、群馬、長野、福島、新潟などの各県から訪れた研修生は年間300人以上で、自宅に宿泊させての実地指導を行いました。
 このような愛三の貢献に、国は緑綬褒章、大礼記念章を授与しました。こうした実績を称え「麦王(麦翁)」と呼ばれた愛三のふるさと熊谷には、その思いをくんだ良質で全国有数の収推量を誇る麦作りとうどんの食文化が今も伝えられています。

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